常念寺の歴史
後小松天皇の御代、明徳元年(1390年)初代将軍 足利尊氏公の甥である空遄召運上人が真清田神社へ参拝の折、光厳法皇御追福のため、浄刹建立を祈願し、一百日の参籠が満ちた暁に
『当地に柳樹あり、彼の地 清浄なれば 連夜三星相舎(やど)る、汝 訪ふて願望を果たせ』
との霊夢がありました。
上人は歓喜され、所々を探しまわると、ある柳樹に星三体降り、それを拝むと弥陀・観音・勢至の三尊が光々と示現しました。
上人は、これを末世において凡愚有縁の霊佛であると礼拝し、謹んで三尊を安置し、真清田神社の鬼門にあたる現在の寺島町に堂塔を建立しました。
その柳樹および三星の因縁で【柳星山(りゅうしょうざん)】と名付けられ、また常念寺とは、光厳法皇の御陵のある丹波国山国郷常照皇寺(現:京都府京都市右京区京北井戸町)にちなんで名付けられました。
以来、存野の信者日に増して隆盛を極めましたが、変災にて三度目の諸堂焼亡に見舞わられた天正年間に、当寺の大檀越であった時の一宮城主「関十郎右衛門」がその惨状を深く憐れみ、城の鬼門鎮護として現在の地へと移しました。そして、堂塔を再建し、輪奐の美を整えて、自身の菩提所としました。
その後は、その尊牌を泰安して栄え、先の戦災で全焼するもいち早く復興し、現在に至ります。
また、観音堂には、西国・秩父・坂東の百観音像とともに、傳教大師作と伝えられる【如意輪観世音菩薩像】が安置されています。
延暦二十三年(804年)九月、傳教大師が入唐の際の船路にて、風波の難を除くため、自ら観音菩薩一躰を彫刻して祈願を籠めました。
降って、御冷泉天皇の御代、時の鎮守府将軍であった源頼義公が、安倍氏一族追伐のために、石清水八幡宮へ参籠の折、感応あって河内国(現:大阪府羽曳野市)通法寺の如意輪観音大士を授かりました。
天喜五年(1057年)六月、奥州衣川の城攻めの際にも祈願し、以来源家累代およびその血をひく【足利尊氏公】の守り本尊となりました。
しかし、信仰篤く、国家安泰を祈るため、仏閣への泰納の志から、開山空遄召運上人との因縁もあって、当寺に安置されたと伝えられています。
なお、この観音菩薩像は、昭和三十八年三月二日に、一宮市文化財として指定されております。 (以上 尾張名所図会より)